アメリカ大陸に初めてやってきた日本人は「ジョン万次郎」と言われていますが、実は、違っていたのをご存知ですか?今回の特集では、そんな漂流民・音吉の波乱に満ちた人生を、みなさんにご紹介したく、ぷれ〜り〜の特集記事としてまとめさせていただきます。
みなさんに質問です。アメリカ大陸に初めてやってきた日本人は、誰でしょうか?1841年にアメリカの土地に足を踏み込んだと言われるジョン万次郎(1827年、土佐清水市出身。乗船していた捕鯨船が嵐にもまれ半年の間漂着した後、無人島で生活。その後ア
メリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号によって救助され、ハワイ州滞在の他、マッサチューセッツ州やカリフォルニア州へも訪れている)??じ・つ・は。。。違うんです、ジョン万次郎よりも先に、アメリカ本土へ足を踏み入れた日本人がいるのです!
彼の名は『音吉』、またの名をJohn
Matthew Ottoson、あるいは林阿多(リン・アトウ)。現・愛知県知多郡美浜町に生まれた彼は1832年の10月に『宝順丸』という船に乗って江戸に向かう途中、不運にも暴風にもまれ船が難破、そして漂流民となります。この事件により14歳の少年の人生が、がらっと変わっていくのです。さぁ、今回の特集では、そんな音吉の波乱に満ちた人生を、みなさんにご紹介したく、ぷれいり〜の特集記事としてまとめさせていただきます。故郷を離れた日本人の若者が何を感じ、何を体験し、何を求めていったのか?そして、彼の存在によって、時代や世界がどのように変わったのか?ぜひこの機会に「はじめてアメリカを訪れた日本人」の存在を知り、伝承していただければ幸いです。
イントロダクションとして、まず、音吉とは:
○日本人として初めて米国へ上陸した人
○日本人として初めてロンドンの土を踏んだ人
○世界初の聖書和訳に協力した人
○日本人として初めて船で世界一周を成し遂げた人
○中国において日本人漂流民の救済に尽力した人
○日英和親条約締結時にイギリス側の通訳であった人
○日本人として初めてシンガポールに定住した人
○日本人として初めてイギリスへ帰化した人
このように、音吉の人生にはたくさんの”日本人として初めて”がありますが、不思議な事に日本の歴史の教科書には記載される事はほとんどなく、読者の皆様の中にも「音吉」という名前を初めて耳に目にする方も多いのではないでしょうか?現在米国在中でいらっしゃる日本人の方々、日系の方々、さらには日本語や日本文化を勉強されていらっしゃる方々、にぜひ知っていただきたい音吉の人生、今回はできるだけシンプルな分りやすい日本語で、まるで”お話会”のような流れで執筆させていただきます。そして、彼が選んだ「国際人としての生き方」にも触れ、幕末の日本の開国や国際化および近代化にとって、音吉の存在がどんなに大きな影響を与えたのか、そういった観点からも執筆させていただきたいと思います。
なお、今回の特集記事に関する資料は、「音吉顕彰会」の方々に多大なご協力をいただきました旨、心から感謝いたします。
●船が漂流・ワシントン州へ到着
1832年11月3日(旧暦・天保3年10月11日)、14人が乗り組んだ千石船”宝順丸”が、お米や塩、陶磁器などを江戸に運ぶため、愛知県知多郡美浜町(尾州小野浦)を出港します。樋口重右衛門氏が所有していたこの船は、長さ役15メートルで、約150トンほどの物資を運ぶ事ができたと言われています。さて、この宝順丸の乗り組み員の中に、まだ13歳の少年、音吉の姿もありました。”かしき(炊)”と呼ばれる見習い船員であった音吉は、これからの長い航海に希望と不安を感じていた事でしょう。他にも28歳ほどのベテラン乗り組み員、岩吉も乗船していました。さて、残念なことに、彼らは航海中ひどい嵐に遭遇、漂流の身となってしまいます。なんとその後、14ヶ月もの間、漂流民として海上での生活を強いられる事になりました。
14ヶ月。。。この長い間、音吉や岩吉達が船上で生き残れたのは、1)積み荷にお米があった事、2)海水を蒸留して真水をとる方法が伝授されていた事、などがあげられます。ただし、身体に必要なビタミンが摂取できなくなると”壊血病”という命取りの病気になる場合が多く、音吉の仲間達も1人、また1人、と息を引き取っていくのでした。やっとの思いで生き残った3名、音吉、久吉、そして岩吉は、とある海岸に漂着する事ができました!さてここはどこでしょう?日本ではないようです。出会った人達が何を言っているのかさえわかりません。
真冬の冷たい海風の中到着したその土地は、ワシントン州にあるアラバ岬。アメリカ本土の最西端になる場所であり、現在はワシントン州が誇る美しい自然の宝庫、”オリンピック国立公園”内となります。この土地は昔からネイティブ・アメリカンの部族である、”マカー族”の方々の集落が広がっており、彼らの手によって3人の日本人が発見され保護されたのでした。この時すでに1834年初頭、ですから『日本人として初めて米国に足を踏み入れた』のは、音吉を含めたこの3名の船員だった、という事になりますね。
●フォート・バンクーバー
さて、当時のアメリカ大陸は「毛皮交易」が盛んでした。ビーバーやキツネ、ウサギ、などの毛皮を、英国側の会社”ハドソンベイ・カンパニー”などを通して交易することにより、生活必要品(小麦粉や砂糖、あるいはタバコや拳銃など)を手に入れる事ができたのです。逆にヨーロッパ側ではこれらの毛皮は高級な衣類、特に男性紳士用の山高帽へと代わっていきました。当時ワシントン州やオレゴン州は、毛皮産業に携わるネイティブ・アメリカン達やトラッパー達(罠をしかけて獣を捕る仕事をする人達)が増え、彼らの交易の為の施設である『フォート(砦)』が作られていきました。そのうちの1つ、Fort
Vancouverは、現在のワシントン州南にあり、今でもその当時の様子が
“国立史跡”として残されているのがFort Vancouver National
Historic Site。レプリカや、話し手の方々、歴史研究者のみなさんによって、砦での生活の様子を学ぶ事ができます。
音吉達3人をアラバ岬で保護していたマカー族達も、地元で捕った獲物の毛皮をフォート・バンクーバーに出荷していました。3人の漂流者達は、その荷物の中に、日本語で書いた手紙を託してみたのです。「この手紙が誰かの目に入り、私たちがこの未知の土地に漂泊した、という内容が日本の誰かに伝えられれば、、、」
という小さな希望を胸に抱いていたのでしょう。 実際には、この「不可解な手紙」が当時ハドソンベイ・カンパニーの責任者であり、バンクーバー砦に駐在していた“ジョン・マクラフリン総責任者”の手元に渡り、3人の日本人漂流者達の存在が知られる事となります。マクラフリン総責任者は音吉、岩吉、久吉の3人を自分の砦の中に引き取り、英語教育を受けさせ、西洋文化を学んでもらう、という行動にでたのです。
当時このバンクーバー砦の中には、鍛冶屋(ビーバーを捕るための罠やナイフを作る)があり、毛皮収集所があり(船で送られる前に集められる)、商店があり(物資を交換できる)、木工室もあり(馬具などを作る)、また学校や教会もあり、まるで1つの街となっていました。居住者はアメリカ大陸の原住民もいれば、英国人達、さらにはハワイや中国からやってきた移民達もいたらしく、まさに小さな国際都市。そして、決められた秩序のもと、様々な人種がとても平和に暮らしていたという事です。海外からの漂流者であった3人にとっても、このようなインターナショナルな土地での日々は何かしら実のある体験だったに違いありません。
http://www.nps.gov/fova/index.htm
●ジョン・マクラフリン総責任者
こちらのフォート・バンクーバーの史跡の中でも、そのゴージャスな雰囲気がひときわ目立っているのが、マクラフリンご夫妻が住んでいたお宅。室内には調度品がならび、食卓には豪華なスポード社の超高級陶器が広げられ、、、医者でもあったマクラフリン氏は、この砦の中でもなかなか良い生活をしていたようです。さて、どうしてマクラフリン総責任者は、音吉達3人を迎え入れようとしたのでしょうか?その理由として、「この3人によって、日本が開国する手だてとなるのでは?」と考えていたそうなのです。その当時の日本は鎖国体制中であったため、海外との通商を固く閉ざしていました。実際はオランダと中国とのやりとりは細々と行われていたものの、イギリスやアメリカとの交流は全く存在しませんでした。捕鯨産業がめざましく発展していた当時、日本の港を開港させ、捕鯨船が寄港できるようにするのは大きな目的だったのです。
マクラフリン総責任者は、音吉、久吉、岩吉の3人を1835年にロンドンに送り、王室相手にこのアイデアについて説明しようと試みます。イギリス王室は日本と交易に対して強い興味をみせなかったものの、3人の若者達は『初めてロンドンの地に足を踏み入れた日本人』となるのです。3人はロンドン滞在の後、アフリカやインドを回りマカオに到着。このマカオでは日本帰国の日を待ち望みながら過ごす事となります。さて、マクラフリン氏はその後どのような生活をされていったのでしょうか?彼は3人が出港した後も、このフォートに残りますが、1846年にハドソンベイ・カンパニーを辞職。家族揃ってオレゴンシティに移住し、東から新しい土地を求めてオレゴン準州へやってくる開拓者達に食料や物資を提供する商店を営むようになります。更には、1851年度の選挙によって「オレゴンシティ市長」に着任しました。ジョン・マクラフリン氏が“オレゴンの父”とも呼ばれるのは、このような由縁があるのです。
●マカオでの生活とモリソン号事件
当時のマカオは、中国内で唯一外国人が住める場所だったため、非常に国際的な雰囲気の街だったと言われています。マカオに到着した3人は、ドイツ人宣教師のカール・ギュツラフ師の保護のもと、1年間この地で生活する事になります。ギュツラフ宣教師はタイや中国大陸で宣教活動などをして暮らしておりましたが、音吉達の日本語/英語理解能力により『ヨハネの福音書』と『ヨハネの手紙(第1〜第3)を翻訳する事に成功しました。まだ見ぬ国、日本の人達にも聖書を読んでもらいたい!と感じていたギュツラフ宣教師にとって、この3人の、“英語をある程度理解する事のできる日本人”との出会い、これは神様への感謝を強く感じる出来事だったに違いありません。1837年にシンガポールで出版されたこの『ギュツラフ訳聖書(日本語題名:約翰(ヨハネ)福音之伝)』は、一般の人でも読めるように文字は全て方カタカナになっており、「ハジマリニカシコイモノ
ゴザル。コノ カシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。(現代訳:初めに言葉があった。言葉は神と共にあった)」という句からはじまります。この聖書の中では、”あそこ”が「アスコ」、’あるく”が「アヨブ」、“見上げて”が「アーヌイテ」など、尾張の方言そのままに訳されている所が興味深いですね。音吉が『世界初の聖書和訳に協力した人』である事が理解していただけると思います。
1837年、待ちに待った日本帰国の日がやってきました。アメリカ人商人でもありクリスチャンでもあった、米国オリファント商会のキング氏などが中心となり、漂流者達を日本へ送還し、その事から日本が開国・開港し、さらには外国との通商をはじめるように交渉しよう!という話になったのです。という訳で、モリソン号という船が用意され、日本人漂流者達は懐かしい祖国、懐かしい人々を思いながら日本の海へと向っていく事となります。ちなみに、この船には、後に「ペリー来航」時に日米交渉の通訳を担当する事になるS・W・ウィリアムズ氏も乗船していました。途中、沖縄に滞在していたギュツラフ宣教師も乗り込み、いざ、浦賀の港を目指すのです!
この時、音吉、岩吉、久吉の3人の他に庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松という4人の薩摩からの漂流者達も含め、7名の日本人が帰国を求めて乗船していました。みな、大きな期待を胸に海原を進んでいたに違いありません。がしかし、1837年7月30日、7人の若者達は運命の残酷さを再度、経験する事となります。『異国船打払令』により、日本幕府からの強い砲撃を受けてしまうのです。この後、薩摩にも向かいましたが、そこでも悲しい砲撃を受けてしまうモリソン号。やむなく、引き返す事しかできない音吉はじめ、7人の日本人船員達はどのような気持だったでしょう。目の前に、手が届くような所に、会いたい人が待っているというのに。。。
● 日本人漂流民救助と通訳業
祖国に見捨てられた気持ちになっていた漂流民、でも彼らは、「自分達には大きな役目があるのだ!」と心に決めました。それは”自分達のような境遇になった日本人を助けて行こう”という目標でした。モリソン号で一緒であった他の6名に関しては残念な事に情報が途絶えてしまいましたが、音吉に関しては資料が残っており、一旦マカオに戻った後、イギリス船の水夫として働いたそうです。さらには英国系の商社である”デント商会”へ入社、貿易業務に取り組んでいく一方、不運にも日本から漂流してきてしまった船の乗組員たちの帰国を助けていったと言われています。その船の名は摂津の永住丸や栄力丸、紀伊の天寿丸、そして半田の永栄丸などがあげられますが、特に音吉が最後に援助したと記録されている”永栄丸”は、彼の地元の知多半島からの船。その船に乗っていた漂流民の帰国の際には「半田の亀蔵によろしく」と伝言をお願いした、と言われています。やはり、いつまでも彼の心には古里への思いが残っていたのです。音吉は『中国において日本人漂流民の救済に尽力した人』、日本人としての誇りと日本への愛情を、このような形で表現していたのかもしれません。
巧みな言語能力を使い、通訳業務でも活躍していた音吉。彼は通訳師として2度ほど日本の土地を踏む事になります。1度目はイギリス海軍の軍艦マリナー号の通訳として浦賀へ。この時は中国人として『林阿多』という名を使って仕事をしていたそうです。2度目は1854年、日英和親条約締結時の通訳として訪日。この時、スターリング艦隊が長崎に向かい日本との国交を結びましたが、音吉は1人の立派な国際人として、そして通訳者として、多大に貢献していたのでした。日本を捨て、海外での生活の方が長くなっていた音吉の目に、その頃の日本はどう映ったのでしょうか?『日英和親条約締結時にイギリス側の通訳であった人』から見た日本、この内容が1855年1月13日及び4月28日に発行された”イラストレッド・ロンドン・ニュース”に記載されました。
文化や宗教の紹介、政治体制の説明など、英国民達は、今まで閉ざされてきたエキゾチックな国の現状を、興味深く読まれた事でしょう。ちなみに、この時には”ジョン・M・オトソン”という名前が彼の呼び名となっていました。名前が違っていく度に、音吉の心境の変化、社会情勢への期待、国際人としての意気込み、などを感じるのは筆者だけでしょうか?
●ラナルド・マクドナルドへ与えた影響
さてここで、また質問です。『日本で最初の英語教師になった人』は誰でしょう?この答えの人物は、音吉はじめ日本人漂流民達と不思議な関係で結ばれています。彼の名はラナルド・マクドナルド。スコットランド人の父親とアメリカ・インディアンの部族の1つである、チヌーク族出身の母親を持つ、いわゆる”ハーフ”の彼は、自分のルーツは日本人ではないか(インディアンは昔日本からアラスカ大陸を超えてアメリカへやってきた、という説があります)と興味を持ち、また未知の国・日本の文化や人々の生活に、大きな憧れを持っていたのだそう。そんな時、彼の父親が勤務していたオレゴン州アストリア近くで、”日本からの漂流民がバンクーバー砦にやってきた(音吉、岩吉、久吉)”という情報を耳にし、ラナルドの日本への憧れはいっそう強くなるのでした。
「どうにかして日本へ行けないだろうか?」と考えた末、ラナルド。ハワイから捕鯨船に乗り組み員として乗船、日本近海にたどり着いた際に下船用の小型ボートに移り、”わざと”遭難したように”装った上で、1848年5月に北海道の北西、利尻島へ上陸したのです。当初は長崎に幽閉されたラナルドですが、日本側の対応はとてもよく、衣食住の不備なく過ごす事ができました。これには、ラナルド自身の持っていた誠実で温厚な人柄や、日本語や日本文化を学ぼうとする姿勢がそうさせたという説があります。また、鎖国中の日本にはオランダ語や中国語をたくみに操る通訳は存在しましたが、英語はまだまだ勉強の余地がありました。そこで、ラナルドは座敷牢の中で14人の若い通訳師達に生の英語を教える、という業務を承り、半年の間、ネイティブによる英語教育を通訳達へ施したのです。実際は、教えるだけでなく、ラナルド自身も生徒達から日本語を学んだという、友好関係が生まれていました。その中で1人、とびきり覚えの良い人物、森山栄之助(多吉郎)がいましたが、彼こそが後にペリー来航の際、日本幕府側の主席通訳として活躍した人となります。
いかがですか?音吉の与えた影響により、ラナルド・マクドナルドが日本へ向う意思を固め、
英語教師として日本に滞在する。そこから日本の国際化の幕開けの橋渡しとなる重要人物(通訳)を生みだす事となったのです。ラナルドは帰国してからも、日本の事情や日本人の素晴らしさをアメリカ人達に伝え続けたと言われており、草の根レベルとしての『日米国際交流の先駆者』となったと言っても過言ではないでしょう。「Soinara
(Sayonara) my dear, Soinara…」という最後の言葉で幕を閉じたラナルドの人生。Sayonaraという言葉はワシントン州フェリー群に作られた彼の墓碑の上に目にする事ができます。また、利尻にある野塚展望台には「ラナルド・マクドナルド顕彰碑」と「吉村昭文学碑」がつくられており、彼の訪日が伝承されているのです。吉村昭氏はラナルドの数奇な人生を『海の祭礼』という一冊の歴史長編で記し、文学碑には吉村氏の残した文章の一部が刻まれています。
●シンガポールでの最期
話を音吉に戻しましょう。日英和親条約時の通訳業務なども終えた音吉は、シンガポールを定住の地とし、家庭を持ち、子供にも恵まれ、また貿易商としての仕事も気道に乗り、海外との架け橋となる生活を営んでいたという事です。開国後の日本では「外国の実情を学ぶ」「海外の都市と開港を結ぶ」といった目的から”幕府遣欧使節団”が形成され、そのメンバーの中にはあの福沢諭吉氏や森山栄之助氏といった名前も。彼らはシンガポールにも寄港し、その折りには音吉はわざわざ使節団の宿舎を訪ねていったと記されています。歴史上の著名な日本人同士、これからの日本の国際化について熱く語り合ったのでしょうか?『日本人として初めてシンガポールに定住した』音吉、さらには『日本人として初めてイギリスへ帰化した人』となった彼には、もう日本は他国だったのでしょうか?いえ、そんな事はないと思います。なぜなら、彼は息子のジョン・ウィリアム・オトソンに「いつか、自分の代わりに日本へ帰っておくれ」という言葉を残して、息を引き取っていった、と言われています。この時、日本は明治維新の前年1867年、音吉はその波乱に満ちた人生に幕を閉じるのでした。
ジョン・ウィリアムはそんな父親の遺言に基づき、約10年後、横浜港から日本へ入国、「山本乙吉」と改名し、日本人女性と結婚します。音吉の遺骨はシンガポールのキリスト教徒墓地に埋葬されましたが、その後都市開発のために国立墓地へと移動されました。現在では、音吉の御遺骨はシンガポールの日本人墓地公園納骨堂、日本では山本家先祖代々のお墓、および、1832年に行方不明となった宝順丸乗組員の方々を奉った良参寺にあるお墓、という3つの場所に納められています。遭難後、173年もかかって無事に帰国を果たした音吉。心から「お帰りなさい、そしてありがとう」と伝えたいと思いませんか?
●音吉顕彰会
漂流からはじまり、アメリカ、イギリス、マカオ、シンガポール、と、日本人としての誇りと国際人としての視野を持ちつつ活躍した音吉。彼の生涯は、当時の政治の世界にもまた草の根的な世界でも、たくさんの方々に大きな影響を与えました。そんな彼の功績をたたえ、もっともっと、世界中の方々に音吉の事を知ってもらいたい、音吉の名の元に各国の人々との平和な絆を求め、更には国際人の人材育成のために貢献していきたい、と精力的に活動をされている団体をご紹介させていただきます。『音吉顕彰会』の皆様は、日本のみならず、世界各国の音吉ゆかりの地を訪ね、深い調査と研究を勧められています。また国際親善のために幅広い広報活動をされており、シンガポールの学校とのホームステイ交流、シアター・ウィークエンドによる音楽劇「にっぽん音吉物語」の国内外(シンガポール、ワシントン州など含め)での公演、また天皇皇后両陛下のシンガポールご訪問を顕彰会として迎えられたり、その他イギリス、中国、ハワイなどへの訪問も行われています。音吉の御分霊式を真心込めて実施されたのも、この顕彰会の皆様なのです。
前・美浜町町長でもあり、音吉顕彰会の会長でおられる齋藤宏一様は”今、なぜ「にっぽん音吉」なのか?”という質問にこのように答えていらっしゃいます:「(音吉のことは)残念ながら日本史の中には載って来ない。なぜならば彼らは漂流民であるが故に、時の法律によって帰国を拒否された日本人であったから。でも、私達はこうした埋もれた歴史を掘り起こして社会に広め、世界の国々と親善のために活かしていかなければなりません。そして彼らが結んでくれたアメリカ、イギリス、ドイツ、中国、シンガポールとの絆を大切にし、今後一層進行を深めていきたいと思うのです。」
http://www2.ocn.ne.jp/~otokiti3/
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tws/we_01.html
●最後に
1961年には小野浦にて「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑」が建立され、こちらでは毎年10月に式典が行われています。ワシントン州にある国立史跡公園’フォート・バンクーバー’には、音吉達3人の横顔をあしらった「友好親善の碑」がメインオフィス横に建っています
。シンガポールには、音吉の御遺灰が眠るだけでなく、音吉の顕彰碑が作られ、音吉の娘エミリー・ルイザ・オトソン(享年4歳9ヶ月)の墓碑、そしてそんな幼女を見守るかのごとく、ギュツラフ夫人(音吉達が聖書和訳を手伝ったギュツラフ牧師の奥様)の墓碑も残っています。ケープ・アラバのマカー族のみなさんと美浜町のみなさんは、音吉顕彰会を通して様々な文化交流を行っています。イギリスには、音吉が通訳として訪問した日本の情景が描かれた資料が残されています。。。このように、音吉の残していった足跡が、世界の様々な地で確認できるのです。
ぷれ〜り〜をご愛読くださっている皆様は、海外ご在住の方、日本語以外の言語を使われている方、国際文化交流に興味のある方、外国との貿易業務に携わっている方、などが多いかと思います。漂流民・音吉は自らの人生を「世界を繋げる架け橋」として貢献し続けました。そして彼の足跡を探る事により、歴史の教科書には記載されなかった事実を知っていく事ができるのです。『日本人として初めて米国へ上陸した人』である音吉、彼の生涯を知れば知るほど、彼から現代社会に住む私達への問いが聞こえてくるような気がします。:「真の国際人になるためには、どうしたらいいのでしょうか?」
参考文献例:
「日本音吉漂流記」 春名徹 著
「音吉少年漂流記」 春名徹 著
「海嶺(かいれい)」 三浦綾子 著
「海の祭礼」 吉村昭 著
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