「河野選手」。
この言葉に敬意を感じた。
10月16日、シカゴのUICパビリオンで行われたボクシングWBA世界スーパーフライ級タイトルマッチ、王者・河野(こうの)公平vs挑戦者・亀田興毅(こうき)。初めて日本選手同士がアメリカの地でチャンピオンベルトを懸けて戦った試合は、亀田が日本での度重なる不祥事≠ノより日本でのライセンスを失ったことが理由だったとはいえ、日本ボクシング界にとって歴史的な一戦だった。
注目されたのは、王者ではなく、挑戦者の方。亀田3兄弟の長男でもある興毅は日本で初めて3階級制覇を達成(のちに井岡一翔が達成)した選手。今回は8度の防衛に成功したバンタム級から1階級下げ、日本選手初の4階級制覇を目指していた。ビッグマウス≠ニしても知られている。アメリカ国内はさておき、日本国内では大きな注目を集めていた。
実は、筆者が亀田を取材するのは今回が初めて。過去の報道からどんな選手であるか、ある程度のイメージはできていた。試合3日前に行われた公開練習では、取材前に「亀田が来ると空気が変わる」とも聞かされていたので緊張したが、いざ、取材をしてみると、その逆。コメントはユーモアと機知に富み、その前に練習を公開した河野選手よりも穏やかな雰囲気になった。
亀田は誰に対してもタメ口―。そんなことも聞いていたので、まず「河野選手」と言ったことに驚いた。対戦相手は自分よりも5つ年上だが、年下だったとしても「選手」ときっと呼んでいたはずだ。なぜなら随所に「〜ですよ」、「〜ですね」、「〜じゃないですか」と丁寧な言葉を使っていたからだ。メディアが過激発言ばかりを切り取ることによって作り上げられた「亀田興毅」はそこにはいなかった。
試合2日前の記者会見では、河野選手とにらみ合った後、「オーラがなさすぎる。オーラがないし、緊張しすぎ。震えてたもん、あっこ(壇上に)立った時。びっくりした。何をおびえてるのかな、と。俺を前にして足がすくんでたんじゃないかな」と亀田節≠炸裂させた。最後の一言は事実ではないだろうが、これらの表現は決して大げさではなく、会見中にあいさつを求められたチャンピオンはマイクの前に立つとしどろもどろ。明らかに緊張していた。
試合前日の計量の際には自身がCM出演している「スニッカーズ」を相手に手渡すパフォーマンス。「1人で俺、盛り上げたけどね。1人で!
この千両役者おれへんかったら(今回の試合は)全然盛り上がってないよ」。これも誇張ではなく、亀田の言うとおりだった。
言葉づかい以外に気になったことがもう1つある。取材陣にうながされるようにしてKO勝ち≠宣言した後、こう付け加えた。
「勝負の世界。勝つ時もあれば、負ける時もある。だから、明日もリングに上がってみな分からへんよ、どないなるか。勝負の世界やから。ラッキーパンチっていうのもあるかもしれへんし。それが勝負でしょ」。
異口同音の言葉は公開練習の時にも口にしている。
果たして、試合は戦前の予想を覆し、河野が3―0の判定で2度目の防衛に成功した。敗れた亀田は控室の前で報道陣に囲まれると、まず試合序盤にボディーへのパンチをローブローの反則と判断し、減点したレフェリーをしつこく批判した後、「もう、俺、この試合終わったらやめようと思ってたから、ボクシングを。この試合がラストマッチのつもりでやってたから、これ以上先はないですよ」と突然の引退宣言。「いいボクシング人生を送れて楽しかった」と振り返った。
「もう俺は、最後の火が消えかかってるから、今は。ゆうてもおっちゃんやから。年には勝てません!」。
11月で29歳を迎える亀田が自分自身についてそう話したのは公開練習の時だ。これらの言葉はその後の質疑応答で、35歳になる河野に対しても使い、『挑発』として取り上げられたが、元は自分自身に対するものだった。
わずか4日間の取材。筆者が一連の亀田の言動から感じたのは、対戦相手に対する『敬意』とメディアへの『心遣い』だ。取材前にイメージしていた『悪』は最後まで感じられなかった。
亀田の引退を伝え聞いた河野は言った。
「彼もすごい崖っぷちだったと思うんですよ。プレッシャーをかけて、かけられて。試合前もすごい盛り上げていた。(自分に対し)ここまで言うのか、って。でも、そういうつもりじゃないんだな、いい人なのかなという気持ちもある。(ライセンスを失って)試合したいのにできなかったり、10代の頃からテレビに追いかけられたり、いろいろ大変だなって。スポーツマンとして正々堂々と戦ってやめるなら、お疲れ様という気持ちですね」
グラブを合わせた者だけにしか分からないことがある。
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