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かすれた声はわずかに震え、その顔には疲労の色がにじんでいた
3月13日、アリゾナ州メリーベール。
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スタンドに掲げられた「東北ガンバレ」のボード。斎藤も胸を熱くした(共同) |
メジャーリーグ、ミルウォーキー・ブルワーズの斎藤隆投手はキャンプ地のクラブハウスで遠く離れた故郷の人々の無事を祈り続けていた。
3日前に東北地方太平洋沿岸部が大地震に襲われた。マグニチュード9・0は、1923年の関東大震災を上回る日本では史上最大規模。町が一瞬にして呑み込まれた・・・。アリゾナ時間の深夜に飛び込んできた緊急速報に斎藤投手は愕然とした。
1970年、宮城県仙台市に生まれた。地元の東北高校、東北福祉大学で青春時代を送った。親戚縁者はもちろんのこと、一緒に甲子園で戦った仲間ら、友人、知人が数え切れないほどいる。大切な人たちの暮らす地域が悲鳴を上げている。いても立ってもいられなかった。
日本とキャンプ地との時差は16時 間。「夜中の3時がキーになっていて、必ず誰かから連絡が入ってくる」。断続的な睡眠時間しか取れないため、球団からは別メニューでの自主練習の許可が出
された。安否確認は遅々として進まず、仙台市に住む両親と兄の無事を確かめることができたのは震災2日後。その翌日には両親と直接、話すこともできた。
CNNなどアメリカのテレビ局が流す映像はいずれもショッキングなものばかり。「どうも私が見ている映像はひどいところばかりのようで、両親や兄弟は『隆
が思ってるほど悪くはない』と言ってくれて、ちょっと安心しました」。さらにその翌日には、大津波が押し寄せた東松島の父方の親戚の無事も確認できた。し
かし、斎藤投手が安堵の表情を見せたのは一瞬でしかない。
「親族はみな無事でしたが、(被災者同士が)お 互いに気を使っているようです。悪いところの人は悪いところの人なりに、いいところに行こう(避難する)という思いはないようです。みんなでがんばろうと
いう状況らしいです。こんなに遠くにいる私が精神的に落ち込んでいますから、被災された方々の気持ちを思うとですね、もう本当に言葉ないですね」
一度は帰国も考えた。現にニューヨーク・ヤンキース傘下のマイナー球団でプレーする井川慶投手は故郷・茨城県の両親に会いに帰っている。しかし、熟考した末、斎藤投手はスプリングトレーニングを継続することを決断した。
「仙台にいる家族がそれ(キャンプ継続)を一番強く願っている。それに僕はこたえたい。今は野球を続ける選択以外にない」
亡くなった数はすでに1万人を突破。行方不明も1万人を越えている。3月25日に開幕する予定だった日本のプロ野球は、二転、三転した挙句、セ、パ・リーグとも4月12日
に開幕することが正式決定した。実施している練習試合を被災地への義援金を目的としたチャリティゲームに変更する球団もある。選手の中には「被災者の方々
を自分たちのプレーで勇気づけたい」と言う者もいるが、斎藤投手は「我々のプレーが、みなさんの励みになるなんておこがましい。(被災地や被災者の)状況を知ってるだけになかかなそんなことは言えない」と表情を曇らせる。
「もしもですね、本当にもしも、万が一、ちょっとでもみなさまの力だったり、復興のための励みになるのであれば、という思いですよね」。
メジャーリーグの各球団、特に日本人選手が所属するチームは震災発生直後に義援金を送ったり、選手による募金活動を実施しているが、斎藤投手はそこにも違和感を覚えている。
実際にブルワーズからはチャリティイベント開催の相談を受けていたが、斎藤投手は時期尚早と考え、首を縦に振らなかった。「私の方で状況が把握できていな
いし、まだまだ震災で安否が確認できていな方がたくさんいるので、もう少し時間をください」。故郷の人々が今、どんな思いで生きているかが痛いほどわかっ
ているからこその言葉だった。
水やガソリン、食料の不足。原子力発電所による放射能汚染。命にかかわる問題の解決は遅々として進んではいない。
被災者への想いを胸に斎藤投手がプロ20年目のシーズンを過ごしている。
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