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2年前まで日本プロ野球の千葉ロッテでプレーしていた田中良平投手がメジャーの舞台を目指してアメリカで奮闘している。所属先は、先月号で取り上げたボルティモア・オリオールズのマイナーリーグ球団、2Aブーイ・ベイソックスだ。
少々話は脱線するが、先月号で解任第1号と予想したオリオールズのデーブ・トレンブリー監督は5月28日現在も低迷するチームの指揮を執り続けている。それよりも早くチームの不振を理由にクビになったのが、就任3年目のカンザスシティ・ロイヤルズのトレイ・ヒルマン監督。日本では北海道日本ハムの監督を務め、06年に日本一になった実績を買われての抜てきだったが、期待にこたえることはできなかった。
さて、本題に戻ろう。
田中投手が渡米を決意したのは08年のオフ。その年の10月に球団から戦力外通告を受け、さらに国内の合同トライアウトにも落ちた後のことだ。不完全燃焼。「目指すならメジャー。アメリカでだめなら野球をやめてもいいと思った」。選択肢には国内の独立リーグや韓国、台湾の国外もあったが、そこでプレーしているほとんどの選手の目標は日本のプロ野球。再び、同じゴールを設定する気にはなれなかった。
石川県出身の田中投手は県立加賀高ではエースとして投げ、当時は敦賀気比高・内海哲也(現巨人)、七尾工業高・森大輔(現独立リーグ・石川)と“北陸三羽ガラス”と呼ばれた。00年ドラフトでは千葉ロッテから1位指名。アメリカでいうトッププロスペクトだ。1軍デビューまでには3年を要したが、03年の登板数はわずか5試合。すぐに2軍行きを命じられた。0勝0敗0セーブ、防御率8・10。これが日本で残した“実績”だった。
こんなもんじゃない。自分はまだまだ投げられる。そこから野球人生を賭けた挑戦が始まった。ロサンゼルスに滞在し、メジャーリーグのスカウトを集めての公開投球。3度目でやっと手を上げてくれたのがオリオールズだった。もちろん、マイナー契約。「話がまとまったと聞いた時は涙が出ました」。自分の力でこじ開けた扉。また好きな野球ができる喜びと安堵。幸せの涙だった。
ピザが発給されるまで一旦、帰国。再渡米したのは5月に入ってから。約1カ月のキャンプをへて今のチームに合流した。課せられた役割は中継ぎだったが、好投が認められて先発に“昇格”。そのシーズンは4勝4敗、防御率3・00の結果を残した。10月には若手有望株が集結するアリゾナ秋季リーグのメンバーにも選出。チームメートには昨年のドラフトでワシントン・ナショナルズから1位で指名され、史上最高額の1510万ドルの契約を結んだスティーブン・ストラスバーグ投手もいた。
アメリカで1年を過ごして日本との大きな違いを実感したことがいくつかある。指導方法もそのひとつ。「日本ではブルペンでの投球練習は1球ごとに体の使い方などのアドバイスがあった。でも、こっちではいいボールを投げた時に声がかかるぐらい。基本は選手任せ。このスタイルの方が自分に合っている」
日本では投球フォームの改造は日常茶飯事。そんな手取り足取りの指導に息苦しさを感じていたようだ。日本では制球を安定させるためにサイドスローに変えたが、現在はスリークォーター気味。「自分の中でしっくりきている。自然と今の形になった」。
2年目となる今季は他の選手と同様、2月キャンプに参加し、4月の公式戦開幕から先発ローテーションを守っている。5月30日現在、3勝5敗、防御率4・34。好不調の波があるのが気がかりだ。
私生活でもゆとりが出てきたようだ。住居は野球好きの老夫婦が住む一軒家。開幕前にそこで居候するチームメート2人に「1部屋空いてるから来ないか?」と誘われ、二つ返事で転がり込んだ。球場まで約15分の道のりは同僚の車に便乗させてもらっている。周辺には娯楽らしい娯楽はない。それも幸いしている。
「いろんなことを考える時間が増えた。野球のこと、自分のこと、将来のこと、日本にいた時にはそこまで考えることはなかった。とても充実している」。
野球人生を賭けた挑戦。メジャーへの道は遠く、険しい。何があってもその情熱だけはなくさないでほしい。夢を追う若者の姿は美しい。
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