『泰良』と書いて「たいら」と読むそうだ。仲間からは「タイラー」と呼ばれている。
植松泰良さんは現在、メジャーリーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツのブルペン・キャッチャーを務めている。
ブルペン・キャッチャーとは、ピッチャーが試合で登板する前に投球練習をする場所、ブルペンでボールを受けるのが主な仕事。ただし、アスレチックトレーナーのライセンスももっている植松さんは選手たちの体のケアもしている。
今年7月のアリゾナ・ダイヤモンドバックスの本拠地、チェイス・フィールドで行われたオールスター・ゲーム。シアトル・マリナーズのイチロー選手が選から漏れ、11年ぶりに日本人選手のいない「真夏の夜の祭典」となったが、植松さんはナショナル・リーグの一員として参加した。唯一の日本人だった。
それは植松さんの何気ない一言で始まった。
3月のスプリングトレーニング。日課となっていたブルース・ボーチー監督の足のマッサージをしながらこう聞いたそうだ。
「今年のオールスターには僕も連れて行ってもらえるんですか?」
ナショナル・リーグとアメリカン・リーグのスター選手が集結するオールスターゲームには、前年のワールドシリーズに進出したそれぞれの球団がそれぞれの監督を務めるだけでなく、コーチや裏方さんも出すことが慣例となっている。
ジャイアンツは昨季のワールドシリーズの覇者。植松さんはそれを踏まえて興味本位で、あくまでも冗談のつもりで言ったそうだが、「お前も行きたいのか?」とボーチー監督。そこからとんとん拍子に話が進み、”メンバー入り”が決定した。
「ここに呼んでいただいたことは本当にありがたいと思っていますし、ジャイアンツの選手ががんばってくれてワールドシリーズに勝って、その関係でここに来られたので、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」。
感謝の気持ち―。
植松さんがアメリカに渡ったのは高校を卒業した02年のことだ。母校の西武台千葉高校では野球部に所属。捕手だったが、レギュラーになることはできなかった。「そのこともあって野球をやめられず、アメリカでもなんらかの形で野球に関わりたいなと思っていました」。
目指したのは、アスレチックトレーナー。留学先のサウス・イリノリ大学では野球部には所属せず、選手をサポートする術を身につけることに専念した。実習では野球部に1年間帯同。そこで運命の出会いを果たす。
ダン・キャラハン監督。
「自分の恩師です」と植松さんは言う。
「監督から『野球をやっていたのか?』と聞かれて、いろいろ試されて、トレーナーをしながらバッティング・ピッチャーやブルペン・キャッチャーもやらせて
もらいました。監督も僕のことをすごく気に入ってくれて、普通は2年続けて同じスポーツの実習はやらないのですが、監督から呼んでいただき、最後の年も
チームに帯同しました」。
キャラハン監督の下で過ごした2年が今に生きている。大学卒業後の07年にジャイアンツ傘下、3Aフレズノにブルペン・キャッチャーとして”就職”。渡米時には想像もしなかった未来図がここにある。
「考えてみれば大変なことだと思うんですけど、自分の力で来たわけではなく、助けてくれた人たちがいてここまで来ることができた。本当にありがたいとしか言いようがない」。
感慨深げに話すその表情に悲しみが見えたのには理由があった。
「監督が亡くなってしまったんです。ワールドシリーズが終わった直後でしたね。すぐに飛んで会いに行きました。亡くなる前日でした。その時には意識がなくて・・・。でも、最後に会うことはできました」。
キャラハン監督は植松さんがジャイアンツの一員としてワールドシリーズを戦っていることも知っていただろう。チャンピオンになる瞬間を病室のテレビで見て
いたかもしれない。「これからもどこかで見てくださっていたらいいな、と思いますね」。植松さんは心からの気持ちを言葉にする。
「将来はトレーナーになりたいと考えていますが、そうなるとマイナーリーグに戻らないといけない。ここ(メジャー)にいることはありがたいことですし、今は切り替えようとは思わない」。
根っこにあるのは、高校時代に抱いた純粋な思いだ。
「なんらかの形で野球にかかわりたい」。
念ずれば通ずる。
そして、どんな時も周囲への感謝の気持ちを忘れない謙虚な姿勢の大切さを植松さんは教えてくれる。
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